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調べたら、東京から長野まで新幹線でたったの2時間。午前中の用事を済ませて気が付いたら着替えも持たずに新幹線に飛び乗っていた私。曾爺ちゃんの旧本籍地は、長野駅から乗り換えが必要だったので、取り合えず今夜は長野駅前で宿を取る事にした。
チェックインを済ませ夕食を取ろうとホテルを出ると、雪が降って来た。
ここ一軒で丸ごと長野県を謳った居酒屋に入ると囲炉裏の暖かい空気に迎えられる。鹿と馬の刺身が【バカ刺し】という名でメニューに載っていて、なかなかのユーモア。
店員さんも何となく東京にいる人達とは違う独特の暖かみを醸し出すように感じるのは、自分の祖先がここの土地出身という事で好感を持っているからなのか。
とにかく、祖先を知る為にはその土地を知る必要があり、その土地を知る為にはまずは食からではないだろうか。と自分に言い聞かせて、長野の美酒と美食をしっかりと堪能させて頂き、〆は蕎麦。
そして帰り道に食い意地が張ってホテル前で、味噌ラーメン専門店にも入ってしまった…。明日は私鉄に乗っていざ目的地へ。
朝、JR長野駅前から目的地へ向かうべく私鉄の始点駅まで行くと、30分後の出発だという事で、朝の寒さも手伝い日本蕎麦を朝食で頂きながら待つことに。
「アサハンですか?」と、
蕎麦屋の店員さんにと聞かれ、意味が通じない私を見てか、店員さんが改めて聞き直す。
「朝ごはんですか?」
「あ、はいそうです。電車をまだ30分も待たないといけないので・・・。」
改札が開きホームへ降り立つと2両だけのレトロな列車が待っていた。目的の駅まではこれまた30分。途中の駅で列車が停まりドアが開くと、冷たい空気が車内に入って来て、外にはちらほら雪が降っている光景が。
そうこうしていると目的地の小布施駅に到着した。
改札口のホームへは、陸橋を渡るのではなく、線路の上を歩いて渡り、駅員さんの詰所付近では地元農家の野菜が売られている。下車した人は私を入れて4人だけ。
The田舎である。
駅員さんに切符を渡して駅から出る際に「この辺りは、原って姓は多いですか?」と聞いてみたが、長野の別のエリアは多いがこの辺りはそうでもないと言う。
ロータリ付近で、白人の老夫婦を連れた日本人のツアーガイドが地元の人に話し掛けているのが目に入ってきた。
「すみません。この辺にコンビニはありますか?」
「この町はコンビニがないんですよ。」
「まあ、素敵。いいですね。」
それを聞いて私も同感だった。
そんな駅のロータリーにはぽつぽつとタクシーが停まり、雪も降っていたが、傘を買おうか迷ったものの、コンビニではなく、商店に入る事なく、そのまま歩いて目的地へ向かう事に。そう歩くことでその町を理解できるのは皆さん周知の沙汰だ。
駅から雪に濡れながら歩く事、30分。途中、農作業をしている人、ゲストハウス、墓地、一本松など遠くの高い山々を背後に色々な光景が通り過ぎていく。大自然の中の空気が実に美味しい。
ようやく曾爺ちゃんの旧本籍に辿り着いたが、荒地でも畑でもなく、プレハブの家のような倉庫のような建物が建っていた。
「ここが曾爺ちゃんが過ごしたであろう土地かぁ。きっとこの建物も後から建てられたもので、その前は木造の家が建っていたのかなぁ。」
メッカなどの聖地に辿り着いたかのような清々しい気持ちで、そんな想いを馳せながら、建物を眺めていると、通りすがりの農家の人に怪しまれてしまった。
ただ、この土地に来れただけで満足感を得る事ができた。
曾爺ちゃん、私を此処へ呼んでくれてありがとう。さて、帰るか。そう思った時である。驚愕して立ち尽くしてしまった。
その敷地内の本家屋の表札には私自身と同じ姓の【原】と書かれていたのだから‥‥。
何たることか。こんな事って起こるものなのか。明らかに何か不思議なパワーでここに呼ばれて来ている。そんな気がしてならなかった。
実は長野駅前のホテルを出発する前に、フロントからA4用紙をもらい手紙を書く事を思い立っていた。曾爺ちゃんの旧本籍地に家が建っていた場合、この住所に辿り着いた経緯、自身の祖父と曾爺ちゃんの名前、家系図を作りたいと思っている事、何か知っていたら教えて欲しい、連絡をして欲しい旨を記したそこの【世帯主様】宛の手紙を投函する為だ。
ピンポンを押して私はこういう者です。というのもかなり怪しいからできないし、この手紙も十分に怪しいが、それを承知でその原さんの家のポストに手紙を放り込んで、その場を後にした。
来る前に駅に貼ってあった長野県警のポスターを思い出す。イチロー選手の物まねで有名なニチロ―が【オレオレ詐欺に気を付けろ!バットは振っても振り込むな!】と謳っていた。
さてと。巡礼は終わったが、このまま帰るのも味気ないので、この町を歩き、美食を味わい、祖先の町を肌で感じようではないか。来た道を引き返し、駅前の栄えている方へと折り返した。
町を歩いていると、東京や千葉では見慣れない物がある事に気が付いた。それは黄色い土壁の家が点在していること。
その時、突然父親の言葉を思い出した。
昔なんの気なしに、曾爺ちゃんの事を父親に尋ねた時のこと、曾爺ちゃんは、腕の良い左官工だったと父親が言っていたのを思い出したのだ。何でも、その腕前はなかなかのもので、長野から東京へ出てきた後も、その腕を買われ大阪からも依頼が来て仕事をしに行っていたんだとか。
なるほど。こんなにたくさんの土壁の家があるんだから、きっと曾爺ちゃんはここで修行をして自信をつけて東京へ行ったんだろうなぁ。そう解釈してみる事にした。
町の中心地に近づくにつれて、この町の名物は栗だという事が分かりだす。栗の和菓子や洋菓子の土産物屋や、マロンケーキをウリにしたカフェが軒を連ねる。実は私はマロンケーキが大好き。普段ケーキを買う事は多くはないが、たまに無性にケーキが食べたくなる時は決まってマロンケーキを頂く。どうやら、栗の町で育った祖先のDNAがこんなところにも影響しているらしい。
地元の有力者が酒造業を起こしたりするのは良くある話だが、ここ小布施町もそうだった。ここの酒蔵は観光客に開放されていて、どうぞご自由に中へお入りくださいと、立派な門を通り、中を散策する事ができる。
ここでまた偶然が起こった。
この町に葛飾北斎が4年ほど滞在し創作活動を行い、この門を幾度かくぐった事があると門のかわら版に書かれていた。しかもその奥には葛飾北斎美術館があるという。
長野にくる前日、千葉の実家でのこと、私の妹が何の気なしに私にプレゼントしてくれたハンカチの絵柄が葛飾北斎の作品だった。なんという偶然だろうか。
そして、その美術館のすぐ隣にあるのが、葛飾北斎のパトロンであり、地元の豪商・高井鴻山の記念館だ。この記念館には入館せず、外観の写真を撮って、町を更に歩き、曾爺ちゃんより前代の古い戸籍が眠っているであろう小布施町役場を通り過ぎ、長野駅に戻り、新幹線で東京へと戻った。
帰宅後、千葉の実家で長野県の出来事を父に語ったが、父も何気なく答える。
「高井鴻山の記念館の門に掛けられた提灯の写真を良く見てみな。高井家と我が家の家紋とが瓜二つだろう。」
こんなに偶然が重なるものなのか。
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